グイノ神父の説教



C 年

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      間第2主日 C年  2022116日   グイノ・ジェラール神父

            イザヤ62,1 1-5   1 コリント12, 4-11   ヨハネ 2,1-11

 預言者イザヤは私たちを結婚披露宴に誘っています。エルサレムは「若い花嫁のように神の喜びとなっています」。エルサレムをはじめ、またイスラエルと私たちに対する神の愛すべてが光り輝き、喜びがあふれ、四方に広がります。カナで行われた結婚披露宴はイザヤの預言を実現しながら自分の内にも、自分の周りにもすべてを変る力を持つ神の愛を啓示しています。

 花婿として全人類を娶るキリストは神の御顔であり、私たちの人生を照らす光です。イエスが人間になったのは、私たちの不足や力の限界、欠点や誤り、全人類の罪を背負って変化させるためでした。と言うのも、イエスの愛は全てを変化させるからです。イエスは私たちの人生の苦みを永遠の喜びに変ます。すべての不足を満たす新しいぶどう酒として神の永遠の愛がすべての人に与えられています。

 群衆に向って語るキリストはいつも天国の幸せを結婚披露宴に例えられました。聖ヨハネだけが、カナの結婚について証ししました。また聖ヨハネだけが、彼の書いた黙示録の中で「小羊の婚宴」(参照:黙示録 19, 7-10)について語ります。聖ヨハネにとっては、カナで実現された奇跡はイエスの宣教の勝利を告げているのです。ご自分の死と復活によってイエスは全てを新たにします。水はぶどう酒に変化し、ぶどう酒はキリストの血に変化し、私たちのために流されたこの血は全人類に救いを与える新しい永遠の契約に変化します。

 全てを新たにするキリストの使命が始まったことを具体的に示すのは、カナで行われた奇跡です。この最初の奇跡をイエスは一人で行いませんでした。イエスは自分の母マリアの介入と、水がめに水をいっぱい入れる僕たちの助けが必要でした。また自分の使命を果たすために、イエスは12人の弟子たちの協力を願いました。カナの奇跡のすぐ後で、イエスは彼らと共にガリラヤを巡り歩き、後に彼らを地の果てまで遣わします。それは全人類を神の愛の宴会に連れて行くためです。世の終わりのこの宴会の日には、東西南北のあらゆる国から来た、様々な文化や人種の人々が参加するでしょう。

 イエスは水をぶどう酒に変化させるためにだけ来たのではありません。聖ヨハネが教えている通り「キリストを受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与える」(参照:ヨハネ1,12)ためにイエスは来ました。コリント教会への手紙によって聖パウロもこの証拠をみせようとしました。聖霊に生かされている私たちお互いに世話する恵みを受けています。言い換えれば、他の人々の幸せのために働くよう神は私たちをご自分の子供にされました。「一人一人に霊働きが現れるのは、全体の益となるためです」(参照:1コリント12,7)と聖パウロは教えています。世界を変化させ、平和、光、永遠の幸せのご自分の王国にするために、神はどうしても私たちの協力を必要としておられます。

 神を愛し、神に栄光を帰するために、また同時に誰であろうと、隣人に奉仕ともてなしをするために私たちは聖霊の賜物を受けました。ですから、聖霊が私たちを新たにしますように。そして私たちの人生のうちに眠っている苦みや恨みを結婚披露宴のぶどう酒のような素晴らしい喜びに変化させますように。アーメン。

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        年間第3主日   C 年  2022123日  グイノ・ジェラール神父

        ネヘミヤ8,1-68-10   1コリン12,12-30   ルカ1,1-44,14-21

 神のことばを聞く大切さについて再発見するように今日の典礼は私たちを誘います。神の言葉は、今週私たちが願っている一致の泉です。神の言葉が生きる力であることをイスラエルの民はよく知っていて信じていました。ニネベとバビロンに追放された彼らは奴隷になってすべてを失いました。しかし彼らにただ一つの重要なことが残っていました。それはモーセの律法と預言者の教えを聴くために集まることでした。この教えを聞くことによって希望がイスラエルの人々の心の中に芽生えました。

 追放から解放されイスラエルに戻った彼らは、破壊されたエルサレムの瓦礫を発見します。その場で祭司エズラが宣言する神の言葉は彼らの心を動かします。みんな泣き始めました。神の言葉が前の世代の罪の結果を突きつけたからです。しかし喜びはすぐ溢れてきます。祭司エズラは、私たちが今歌ったばかりの詩編の言葉をよく知っていました。「主の律法は完全で、魂を生き返らせ、主の命令はまっすぐで、心に喜びを与えます」(参照:詩19, 8-9)と。そういうわけで、エズラはイスラエルの民が喜ぶように招きます。「今日は、我らの主にささげられた聖なる日だ。悲しんではならない。主を喜び祝うことこそ、あなたたちの力の源である」と。神の言葉を受け入れ、心に思い巡らすなら、主の喜びが必ず私たちの力になります。

 イエスも神の言葉が生きている、現在のものだと思い起させます。昔モーセと預言者たちが言ったことは、今日私たちのために実現します。「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と、イエスは断言しました。従って、晩餐の日にイエスが語った言葉を司祭が聖変化の時に繰り返す時に、その言葉は今日もパンとぶどう酒をキリストの御体と御血に変化させています。また心から神の言葉を守ることによって聖霊は私たちを皆、一つの体、キリストの体とします。聖パウロはそれをよく理解していたので次のように証ししました。「あなたがたはキリストの体であり、一人一人はその部分です」(参照:1コリント12,27)と。

 キリスト教一致祈祷週間は、特に神の言葉に耳を傾けるように招いています。なぜなら、ユダヤ教とキリスト教では信仰の内容と典礼のやり方が違っていても神の言葉は彼らを一致させるからです。事実、神の言葉を聞くことによって、聖霊は私たちを一致させます。また神の言葉は福音宣教の泉です。

 ですから今日、神がご自分の喜びの力を与えてくださるように願いましょう。この喜びは聖霊の賜物であり、神の言葉を味わうことを強く望むように私たちを導きます。また、私たちが神の言葉を心の中で思い巡らす恵みを聖母マリアに願いましょう。最後に、私たちの宣言する信仰を恐れずに喜びと勇気をもって、自分の周りに宣べ伝えるエネルギーを得ることが出来るように願いましょう。神の言葉は自由と一致、また永遠の命であることを絶対に忘れないようにしましょう。アーメン。

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       年間第4主日 C年  2022130日   グイノ・ジェラール神父

       エレミヤ1,4-517-19    1 コリント12,31-13,13    ルカ 4,21-30

 一体イエスはどんな人でしょうか。 ナザレの人々はこの質問に正しい答えを探していました。イエスを見て、イエスの言葉を聞いて、イエスの神秘性を感じていても、彼らは表面的な眼差しでイエスを見続けたので、イエスのうちにある神の力を見分けることができませんでした。ナザレの人々にとっては、イエスはただ単にヨセフの息子というだけでした。

 出エジプト記の話では、エジプトの陣とイスラエルの陣との間に真っ黒な雲が入って、立ちこめ、光が闇夜をつらぬいていました(参照 :出エジプト14, 20)。つまり光が輝いている暗闇でした。この矛盾した状態の中に教会の教父たちや神秘体験のある人たちはキリスト自身の神秘を見分けました。詳しく説明すれば、ナザレの人々はイエスを人間としてだけ見ていました。これは暗闇の局面です。しかし、信じる人はむしろイエスの人間性の内に神の光を見分け、「キリストの内には、満ちあふれる神性が、余すところなく、見える形をとって宿っている」(参照:コロサイ2, 9)ことを発見します。これが光の局面です。

 そこで、ナザレの人々の知恵と眼差しを照らすためにイエスは昔の出来事を思い起こさせました。異邦人であったサレプタのやもめとシリア人のナアマンは、エリヤとエリシャを普通の人間としてではなく、聖霊の恵みで満たされた神の預言者として認めました。この出来事を思い起こしながら、ナザレの人々が自分を普通の人間ではなく、むしろ神の約束されたメシアであることを発見するようにとイエスは望みました。残念なことに、ナザレの人々の否定、怒り、憎しみ、殺意などのせいで、イエスはナザレを出て行かなければなりませんでした。「肉になった神の言葉は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった」(参照:ヨハネ1,11)とあるように。

 昔、預言者エリヤがしたように(参照:2列王1, 20)、イエスはナザレの人々に雷をおとしませんでした。むしろイエスは神に反する人々の暴力を背負うことにしました。神の慈しみは人間のあらゆる激しい怒りにまさっていますから。私たちに示されたイエスの愛は「忍耐強い、すべてを忍び、すべてを望み、すべてに耐える。愛は決して滅びません」(参照:1コリント13,47-8)。

 自分の暗闇と罪の内に留まることを好んでいる私たちは、神の愛と赦しの光を避けています。そしてやがて神を恐れ始め、段々と平気で神から離れます。この明らかな証拠となる行動は、もう祈ることが嫌になり、日曜日のミサに参加することは面倒くさくなり、一般の人と同じように生きる方が自分にとって利益になると思い込んでいくことです。しかし、神はご自分の愛と赦しの光で私たちを光り輝く者にしたいと確かに望んでおられます。神の愛は全てを赦し「すべてを信じ、すべてを望みます」(参照:1コリン13,7)から。

 ですから、皆様にお願いします、ナザレの人々を真似てはいけません。彼らは、自分自身の偏見と考えに捕らわれていたので、神の恵みに自分たちの心を閉じてしまいました。むしろイエスが私たちの眼差しと心を変えるように、イエスにチャンスを与えましょう。あらゆる面で救いと癒しをもたらすイエスの愛が、私たちを満たすように神に強く願いましょう。そうすれば、真実をもって、私たちが今日の詩編の言葉を歌うことができるでしょう。「神よ、わたしはいつもあなたをたたえます」(参照:詩編71)と。アーメン。

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         年間第5主日 C 年 202226日  グイノ・ジェラール神父

         イザヤ6, 1-3, 8      1 コリント15, 1-11      ルカ 5, 1-11

 召命は神の賜物でありながら深い神秘でもあります。漁師であったペトロは仕事をしている時に神に掴まえられました。預言者イザヤはエルサレムの神殿で行われた典礼の時に掴まえられ、パウロはダマスコへの道を歩いている時に主に掴まえられました。三人は全く同じ反応を示しました。神の聖性の前でペトロは叫びました「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」と。預言者イザヤも叫びました「災いだ。わたしは滅ぼされる。わたしは汚れた唇の者だ」と。パウロは「月足らずで生まれた者である私は神の教会を迫害した。ところが、神の恵みによって、私は今の私になりました」と認めました。

 ペトロもイザヤもパウロも主の呼びかけに素直に応じました。死ぬ時まで彼らは受けた召命に対して忠実でした。ペトロは逆さまの十字架上で死に、イザヤは二枚の板の間に縛られてのこぎりで切られました。そしてパウロは首を切られました。この三人に使命を与えることは神ご自身の責任でした。神の呼びかけが彼らの心を動かし、彼らに揺るぎない信頼を与えました。人は神への恐れから始まり、やがて神への信頼に至り、委ねられた使命を見事に実現しました。

 多分彼らは、神は天におられて自分たちとはとても遠い存在だと考えていたのかも知れません。しかし、使命を受けると神はとても近い存在だと彼らは悟りました。遠く離れたのは神ではなく、むしろ仕事と日常生活の悩みにとらえられていた彼ら自身でした。このように私たちがどこにいても何をしていても、例えば仕事中でも、休みの時でも神は私たち一人ひとりにありのままに呼びけます。それは私たちが神の救いの業に参加するためです。私たちは自分の持っている才能で神が世を救うための助けになります。持っている信仰、希望、信頼を尽すなら、私たちはキリストの弟子、あるいは使徒になるに違いありません。ただ、私たちは福音宣教の網を拡げることが必要です。神は不思議な漁を行います。そういう訳で、神は私たち一人ひとりに言います。「恐れることはない、わたしはあなたと共にいる神…わたしは主、あなたの神。あなたの右の手を固く取って言う『恐れるな、わたしはあなたを助ける』、と」(参照;イザヤ 41,1013)。

 ですから信頼の内に主と共に歩きましょう。日常生活の悩みが神から私たちを遠ざけることのないように神の手に固く結ばれましょう。私たちの使命とは主と共に歩むことです。神こそが「道、真理、命」(参照:ヨハネ14,6)ですから。神が私たちと共に歩むのは恐れを与えるためではなく、信仰と信頼の内に一緒に生かせるためです。神と共に生きることは 愛すること、赦すこと、分かち合うこと、慰めることと祈ることだと教えています。

 神は私たちを呼んでいます。その呼びかけは喜びで人を満たします。ですから恐れとためらいを忘れて、勇気を出して主に急いで従いましょう。主の福音宣教はたちの福音宣教ですから。イエスの後に従うことによって人は神の親密さに入ることができます。イエスは神を「父」と呼ぶことを教え、そして聖霊の助けを与えます。私たちは「神の前で」ではなく、「神の内にいること、神も私たちの内におられること」をイエスは教えました。永遠に神と親密に生きるために、受けた信仰と愛の恵みを絶えず感謝することは大切な務めであり、自然なことではないでしょうか。アーメン。

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        年間第6主日  C年 2022213日  グイノ・ジェラール神父

        エレミヤ17,5-8     1コリント15,1216-20      ルカ 6,1720-26

 福音の語ることを詳しく見ると、マタイは山の天辺でイエスにこの幸福の言葉を言わせました。イエスが新しいモーセであることをマタイは人々に納得させたいからです。と言うのもイエスは守るべき掟を語るのではなく、心に納めるべき命の言葉を語るからです。それに比べてルカは平地でほんの少しの幸福の言葉を語りました。ルカにとってイエスは新しいサムエルであり、知恵で満たされた彼の教えは幸福と不幸に分かれています。

 「呪われよ」、「祝福されよ」と言いながら、預言者エレミヤは二つの違った道に分かれた教えを与えました。ルカの福音によるとイエスも「幸いである」、「不幸である」と言われました。幸せに辿り着くには正しい道を選ぶ方が好ましいです。聖書全体はモーセの時代からそれを何回も繰り返しています。「見よ、わたしは今日、命と幸い、死と災いをあなたの前に置く・・・あなたは命を選び、あなたもあなたの子孫も命を得るようにし、あなたの神、主を愛し、御声を聞き、主につき従いなさい」(参照:申命記30, 1519-20)と。

 復活されたキリストは私たちが命を選ぶように誘っています。今日、聖パウロはキリストの復活の大切さを改めて教えました。幸福の道を選ぶことは簡単なことではありません。私たちを縛っている日常生活の物質的なものを捨てることが必要だからです。パウロはその物質的なもののことを「塵あくたと見なしていました」(参照:フィリピ3,8)と書いています。 そういう訳で聖パウロは、はっきりと次のことを宣言しました。「もし、私たちは、この人生においてキリストに望みをかけて生きているだけのことだとすれば、すべての人の中で最も哀れな者です」(参照:1コリント15,19)と。

 復活されたイエスは、命、真理、終わりのない幸せの道です。ですからイエスをよく見てみましょう。イエスのように考え、話し、行い、愛することを学びましょう。生き方を変えることによって私たちが、自分の運命をしっかり掴むようにイエスは誘っています。というのは、私たちがたとえ望む物事を持っていても、みち足りて満足している人として生きてはいけないからです。

 満足できない人々や、笑うこと、食べること、友情や慰めを必要とする人々が「幸せだ」とイエスは断言しました。日常の物質的なものよりも、神ご自身が私たちの人生を満たすように望む事の方が大切です。私たちは神の子どもです。だからこそ、神は私たちに与えたいものを望むのは当然ですから。それは私たちが神の似姿で創られていることをはっきりと現すためです。

 キリストの復活は私たち自身の復活を可能にしました。キリストの復活なしには、信じることが無意味になり、信仰が命を与えるよりも道徳的なものになってしまいます。事実、キリストの復活のお陰で私たちの信仰は神への信頼の尽きない泉になっています。「神への信頼は幸せの泉」と預言者エレミヤは教えました。彼の言葉をもう一度心に納めましょう。「祝福されよ、主に信頼する人は。主がその人のよりどころとなられる。彼は水のほとりに植えられた木」(参照:エレミヤ17,7-8)のようです。アーメン。

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      年間第7主日 C年  2002220日   グイノ・ジェラール神父

     1サムエル記26,27-912-1322-23  1コリント15,5-49  ルカ 6,27-38

  キリストが来られるかなり以前から「自分が望まないことを他の人にしてはいけません」と、知恵のある中国の孔子やきプロスの哲学者ゼノンは教えていました。しかしイエスはこの人たち以上に多くを要求します。イエスにとって愛することは、他の人に損害を与えることを控えるだけではなく、悪に対して良い業で応えることです。イエスにとって愛することは、お返しを望まず「自分の敵対者たちに」良い言葉や良い行いを実践することです。

 多分皆さんは「自分には全く敵がいない」と思い込んでいるかもわかりませんが、それは間違いです。私たちは何年間もある人を恨んで許さないことがあり、その人の敵になっています。また、私たちを批判したり、迷惑をかけて反抗したり、怒らせたり、あるいは私たちが避けたりする人々は私たちの敵です。イエスは特にこの人たちを愛し、赦すこと、彼らが幸せで満たされるように彼らのために祈ることを要求します。果たして私たちはそれができるでしょうか。私たちは自分たちの機嫌を損なう人々に対して復讐することやその人の評判を汚すこと、または彼らに悪いことが起こるように望むこと等は、人間的心情としてとても簡単なことです。

 しかしイエスは私たちに要求することを生涯にわたって自ら実現しました。十字架の上で恐ろしい苦しみを耐え忍びながら、イエスは父なる神に自分を苦しめる人々を赦すように願いました。イエスは自分の敵対者たちに対して一度も復讐せずに、むしろ彼らが心を変えるように誘いました。イエスは自分を憎んで呪い、死刑の宣告を望んだ人々の救いのために命を捧げることによって、彼らに善行を施しました。イエスは誰にも有罪の判決を下しません。イエスは誰も裁きません。むしろイエスは赦しと慰めを提案しています。

 善を行うことは悪を退けることではありません。善を行うことは悪の反対方向を選ぶことであり、またそれを超えるために心を尽くして努めることです。善を行うことはまた神の貴重な恵みです。実に、自分の内に善を見出した場合は、それを自分に帰すことなく、神によるものだと認めることです。それとは反対に悪は常に自分の行為と認め、自分の責任とするのは当然です。

 「人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい」とイエスは勧めています。そう言いながら、イエスは知恵のある孔子や哲学者ゼノンが「自分が望まないことを他の人にしてはいけません」と言ったことをひっくり返しました。イエスは、彼らの否定命題を肯定命題に見事に変化させました。もし私たちが、イエスが言われたことを実践すれば、神が与える報いはとても偉大です。なぜなら、私たちは父なる神と同じように憐れみ深く慈しみ深い人となるからです。言い換えるならば、イエスは父なる神に倣うことを要求します。「敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさいいと高き方の子となる。いと高き方は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深いからである」と。勿論この文章は「神は悪を承諾する」ことを意味していません。神と不正、あるいは暴力、恨み、卑劣な言動、罪などとは、全く共通するものがないからです。

 聖パウロはわざとイエスを「新しい世界を開く新しいアダム」として紹介します。この世界の善は悪のあらゆる種類に打ち勝ちます。イエスは誰もが自己主張するだけの状態ではなく、お互いが助け合う関係の状態になる世界を私たちと共に作りたいのです。その世界では不足を恐れずに、私たちがすべてを与えることができるのです。の世界では、互いに敵対し合うことは到底無理です。ですから、憐れみと慈しみをもって、神がすべての人にご自分を与えることができるように、私たちがこの世界を作り上げるために聖霊が私たちに知恵と力を豊かに与えることを願いましょう。アーメン。

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         年間第8主日 C年  2022227日   グイノ・ジェラール神父

                シラ書27,4-7  1コリント15,54-58  ルカ6,39-45

 物を分別する(ふる)い分けのイメージを利用して知恵のあるシラは私たちが善と悪を整理すること、つまり識別を持つように誘っています。聖パウロは私たちが真理の言葉を持つイエス・キリストを信頼するように願っています。そしてイエスは隣人に対して謙遜であるように提案します。

 賢い人は何かをし始める前に、善と悪の分別や、善いことと悪いことを整理する時間を取っています。自分の日常生活、更に自分の霊的な成長のために何かを決める前によく考える必要があります。特に人を自分勝手な思いで急いで批判しないこと、最後まで完成できないことを安易に始めないことは第一条件です。識別は祈りによって与えられる聖霊の賜物です。キリストの弟子である私たちは、神から来るものと神から来ないものを識別することを学ばなければなりません。

 コントロールしていない反射的な反応と言葉で私たちの隣人を傷つけないために、イエスは私たちに識別を要求しています。識別は回心するための貴重な助けであり、同時に他人に対する私たちの眼差しや判断、あるいは態度を変化させて正します。死んで復活されたキリストの内に私たちが信頼をおくなら、私たちは識別の賜物を得ることができます。識別は人を改善し、また全てを新しく照らします。

 「良い実を結ぶ悪い木はない」とイエスは断言しました。批判する人、悪口を言う人、人の評判を汚す人、人の目におが屑を探す人は自分の内に悪意のある心を育てているのです。その人は不和、嘘、疑い、やきもちと嫉妬の実を結びます。反対に正しい識別によって善意のある心を受けた人は、神が大好きな実、すなわち慈しみ、赦し、慰め、尊敬、もてなし、平和の実を結びます。

 「神見るのは今のあなたではなく、過去のあなたでもない、神が見るのはあなたになって欲しい人だ」と深い霊性の或るイギリス人は言いました。確かに憐れみ深く、慈しみ深い神は、私たちも憐れみ深く、慈しみ深い人となるように強く望んでいます(参照:ルカ6,36)。私たちの日ごとの過ちと罪にもかかわらず、神は私たちに希望を置いてくださいます。そういう訳で、イエスは四つの小さなたとえ話を通して私たちの明晰さや能力、善意や理解力を表すように願っています。このように人間的であり尚且つキリスト教的な徳は「神の国に向って歩むキリスト者の姿」を見せています。

 私たちは、皆、イエスと共に世界の人びとに神の愛の神秘を告げ知らせるため、そして主であるキリストのようになるために遣わされています。ですから、私たちが世の救いのために、善と悪を識別し、良いものと悪いものを分別するキリストの真の弟子になるように聖霊に願いましょう。また、私たちが神ご自身の言葉で人と話し、神の目で人を見、神の心で人を愛することができるように、聖霊で満たされた母マリアの祈りの助けを願いましょう。アーメン。

     


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